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〔連載〕千葉一族盛衰記 第十四話 武士の時代前夜と平忠常【2024年7月号5面】

2024-07-04
カテゴリ:文化・教養,コラム,連載
好評
第十二話で紹介したとおり、平良文は、将門の乱の後将門の私領であった相馬郡を領したことまではわかっています。しかし、その後どうしていたのかは、確たる史料がないのでわかりません。
いずれにしても良文は、忠頼や忠光といった息子たちを残し、歴史のバトンを次の世代に渡すことに成功しました。

平忠常の登場

良文の孫、忠頼の子に、平忠常という人物がいます。忠常は、千葉一族の祖であるという意味で、「千葉一族盛衰記」では非常に重要な人物といえます。
また、日本の歴史においても「長元の乱」と呼ばれる乱の首謀者として名が刻まれている人物でもあります。
この乱は、将門の乱(935~940年)からおよそ100年後に発生しました。はじまりと経過は、忠常が朝廷から派遣された安房守(あわのかみ)を焼き殺したことが端緒となり、結果的には千葉県一帯が焦土となってしまうような大乱に発展します。
一方で、先に紹介した将門と、本稿で紹介する忠常がおこした二つの大乱は、武士の成立の原動力となったとも言われています。

二つの乱と武士の成立

将門にしても忠常にしても、中央で培った政治力によって地方経営を任された人物ではありません。
彼らは、自分の血統と現地での人脈をもとに、自分たちの力でのし上がり生き残った「在地のサラブレッド」たちでした。それだけに、戦をすればめっぽう強かった。
一方、中央からやってきた、あるいは中央の「偉い皇族や貴族」から地方経営を任された役人たちは、ともすると自分たちの人生においてなんの接点もない人物たちが住む「辺境の地」でやりたい放題だったわけです。
中には、中央の権威を傘に私腹を肥やすことに血眼になっていた人物もいたことでしょう。そうなると、ひどい目をみるのは「搾取される側」の人たちです。あり得ないほどの税金を課されても、武力も政治力もない人たちは抗う術がない。そんな人たちが頼るのが、将門や忠常のような「在地の有力者」たちだったと考えられます。
将門や忠常は、自分たちの力の源泉が「在地の人々の信頼」であることを知っています。戦の折の情報提供をしてくれるのも、兵糧を用意してくれるのも、そもそも自分たちの力を信じて戦に加勢してくれるのも、そんな「名もなき彼ら」だったからです。

武士の世を創った人物たちの祖
 
改めて将門と忠常の乱で活躍した主要人物たちの家系図を書くと、面白いことに気づきます。
まず、将門の乱でいえば、将門が殺害した叔父の国香とその息子貞盛は、数代下ると平清盛に行き当たります。
忠常の乱でいえば、最終的に忠常を屈服させた源頼信は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の祖であることがわかります。
また、この乱の当事者である忠常は、後に石橋山の戦いで敗れた頼朝が、房総に逃げてきたときにいの一番に助けた千葉常胤の祖にあたります。
平清盛、源頼朝、千葉常胤。千葉一族の盛衰を主題としている本稿において、武士の時代が花開く時代の立役者の血脈は、鎌倉幕府成立からおよそ150年前のこの時点ですでに出そろっていたのです。
次回は、忠常がおこした「長元の乱」についてお話しします。

【著者プロフィール】
けやき家こもん 
昭和46年佐倉市生まれ。郷土史や伝説をわかりやすく、楽しく伝える目的で、落語調で歴史を語る「歴史噺家」として活動。著書に「佐倉市域の歴史と伝説」がある。
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